第1章 師との出会い
1.15の旅立ち

県境の長い鉄橋を越える頃、垂れ込めた空は大粒の雨を降らせた。電車を襲う辺り一面の激しいしぶき。木の窓枠のところどころから、幾筋もの水滴がしたたり落ちて顔に飛び散る。冷房などない当時、蒸し風呂のような満員の車内にはひとときの冷気である。
切り裂くような稲妻と雷鳴にあちこちで悲鳴が上がり、幼な子が泣き出す。苛立ちを隠さない乗客の群れと、ひたすら肩をすくめる若い母親。見れば、線路は今にも冠水しようかという勢いである。けれども、電車は少しも停まる気配を見せず、モーターを唸らせるとますますスピードを上げて終着駅・名古屋へ急いだ。

高度経済成長には遠く、まだまだ戦後の名残が残っていた昭和33年。中学を出て家の野良仕事を手伝っていた私は、叔父の勧めで故郷を後にすることにした。どこを見ていわれたのかいまだに分からないが「お前は商売に向いている。これからは商売の時代だ」と。
なにしろ家は貧しい。農業とは名ばかりの水飲み百姓で、おまけに7人兄弟の大世帯とあって、火を灯す爪さえ見あたらぬような情けない境遇だった。
背中を押し出されるように私は荷物をまとめ、その日のうちに電車に乗った。
15の夏の出来事である。

車窓から西のかなたにずっと見えていた長い稜線が、いつしか夕闇の中に消えていた。故郷の○○村に連なる鈴鹿の峰々。私はふと、故郷を追われ、故郷に絶縁されたような寂しい気持ちになった。それもそのはず、口減らしに家を出された私にはもう帰る所がない。
一張羅の学生服のポケットには、電車の切符を買えば晩飯代すら残らぬような心細い財布。後は使い古してささくれだらけの柳行李だけが道連れとあれば、どこをどう考えても、名古屋で商売を覚えてメシの種にありつくか、それともどこぞで野垂れ死ぬかの二つに一つであろう。

私は柳行李の中から、叔父から預った勤め先への紹介状を取り出し、神札でも授かるように何度も押し戴いて内ポケットに入れた。相手がどんな人かも、何を扱う店なのかも皆目分からないが、とにかく、この一通の手紙だけが山猿と都会を結ぶ頼みの綱なのだ。
幸いなことに生来の能天気。不安にかられてうろたえるようなことはなかった。幼い頃から「何とかなるさ」と自分に言い聞かせるのが私の常で、それは還暦をとうに超えたこの年になっても変わらない。「三つ子の魂百まで」というが、百才はともかく、取り合えず三分の二までは正しかったようである。  

                 中略

名古屋市北区○○町。名古屋城の外堀の北の端、そこからさらに坂を下った路地の裏にお目当ての○○商店があった。木造二階建の古い二軒長屋、三間間口のいかにも「しもた屋」の風情である。辺りはすっかり暗くなっていた。  
建て付けの良くない引戸を開けて中に入ると、奥に続く土間があって、機械油の強烈な臭気が漂う。入口には大型のスタンドが付いた頑丈な自転車、俗にいう「運搬車」が二台並んでいる。郷里でも農協で使われていて、肥料運びを手伝ったのを思い出した。

土間の奥の板の間にぽつんと一人だけで、その人はいた。○○商店店主・○○○○氏、通称「大将」。小柄だがガッチリした体型で、浅黒く精悍な顔立ちは人を射すくめる強さと、妙な人懐っこさがあった。そして何より、風貌といい体格といい故郷の駐在に瓜二つである。会ったのがこの場所でなければ、間違いなく私は挨拶をしていただろう。それほどに似ていた。
緊張して挨拶にも口ごもる私に、開口一番、大将は「よう来たな、ずいぶん遠かったんちゃうか。腹減ったやろ。取り合えずメシ行こか。そやな、トンカツ好きか?」と関西弁でたたみかけた。

私はポカンと口を開けたままだった。「トンカツ好きか?」と訊かれても、そもそも食べたことがないのだ。
故郷での食生活は、貧しいと言われる農村部の中でもことさらに貧しかったであろう。山村で耕地が少ないから米も野菜も大して取れず、特に動物性蛋白質といったら貧弱そのもの。村には肉屋など一軒もなく(あったところで買えるはずもなく)、川魚を取ってくるのが月に一度のごちそうなら、飼っている鶏を絞めるのが年に一度の大ごちそうといった次第なのである。
そんな私に大将は「ほな急ごう。店終わってしまうよって」と急かす。一言も仕事の話をせず、挨拶もそこそこにトンカツ屋へ急ぐ姿に、私は不思議なほどの信頼感を覚え「一生この人について行こう」と思った。
「食い物の恨みは恐ろしい」と世にいうが、食べ盛りの15才にとっては「食い物の魅力はそれ以上に果てしない」のであった。

                 後略


心理学の格言に「自分のことと渦中のことがいちばん気づかない」というのがあります。 同様に文章においても「自分のことが書けない」というお話をよく聞きます。考えてみれば、自意識が弱ければ自己表現欲求に至らず、自意識が強ければ「感情による迷い」に左右されて、どちらも結局「何も書けないまま」に終わってしまいがち。 喜びも悲しみも「良き想い出」として昇華できた時、初めて「自分史を綴りたい欲求」が芽生えるのではないでしょうか。誰もが持つ「心のプロジェクトX」を大切にしながら。